2021年7月16日、関東甲信越地方の梅雨明けが宣言されました。
本格的な夏が始まります。今年もまた、猛暑が続くと思われます。外出中はマスク着用が必須ですので、熱中症にはくれぐれも気をつけようと思います。
先日、「ブログ読んでます。楽しみにしています。」とお声かけいただいて嬉しくなりました。ありがとうございます(^^) どんな人物がこの会を運営しているかをお伝えしたい、ということがこのブログの目的です。なんてことのない内容ではありますが、読んでくださる方がいらっしゃるということを思うと、なおのこと自分の素直な気持ちをここに書いていこうと思いました。
さてさて、今回の話題に入ります。
1/fゆらぎ(エフぶんのいちゆらぎ)という言葉をご存じですか?
物理的な解説は抜きにして…。
簡単に言うと、この世界に在るものには「ゆらぎ」があります。
一定で規則的だと思われるこの自然界は、実は、規則性と突発性、予測性と逸脱性がほどよく組み合わさっているからこそ、安定的な世界を形づくり、我々はそこに安心を得ているということです。
人はどうしても明らかな根拠に安心したがります。
そのために「完璧」という言葉を用いて、誰の手も介入できない完成度、つまり明らかな根拠を求めようとしがちです。
でも、もし、「完璧」が在るのだとしたら、たぶん、この世界はとてもつまらなく、変化のない単一リズムを刻むだけのものになるでしょう。
想定外のことが起きたり、瞬く間に変化したり、そこに喜びや驚き、悲しみなどが生まれるのは、この世界がゆらぎの中にできているということになるのではないか、と私は考えています。
つまり、我々が生きているこの世界に「完璧」はない。
もし「完璧」を求めるのであれば、それは、単なる自分自身の中にある問題であり、ありえないものを求めているその行為自体に自分が安心したいということ、だと思うわけです。
子育て中のママたちの中に、実はこの「完璧」というキーワードがよく出てきます。
完璧な子育て、完璧な親、完璧な妻・・・。
完璧を求めるということは、その逆、「完璧でないことが起きることを恐れる」ことから発するものではないかと思います。
でも、完璧はそもそも存在しませんから、完璧を求めるということは、「安心を得るための明らかな根拠」を求めるために誤りや間違いがないことを目指す、ということになるのでしょうか。
さらに、思考を進めていきます。
「安心を得るための明らかな根拠」とは、いったいどいうことでしょうか。
失敗がなければ・・・誰かに責められることが無い。
間違いがなければ・・・その先にトラブルが起きない。
それによって得る「安心」なのでしょうか。
さて、話を最初に戻します。
この世界には「ゆらぎ」があります。規則性と突発性、予測性と逸脱性が絡み合っています。
・・・となると、いくら失敗しない状況を作ろうとも、望んでいない突発的な事象が起こります。予想外の出来事に遭遇します。
だから、追い求める「安心」の土台は理想を描いた幻です。
そして、「ゆらぎ」があるからこそ世界は安定し、我々は安心するのですから、そもそも完璧を求めること自体、安心が得られる状況から逸脱しようとしているわけです。
逆を言うと、
「ゆらぎ」の存在によって、私たちは、失敗の中から思いがけない突発的なチャンスが得たり、間違いの中から想定外の幸運や気づきが得る、、、というわけです。
どちらも、同条件ですから片方の面からとらえても仕方ありません。
「完璧」を求める姿勢、のほうからだけで捉えても仕方ないのです。
「ゆらぎ」の存在を楽しめたら、きっと、この世界に馴染むこともラクになります。
完璧を目指した自分が懸命に行動しても完璧な世界など作れないのだから。
突発性と逸脱性が私たちを楽しませてくれるのでしょう。
だから、自分の「思い通りにいかないこと」は、これから何が起きるのかと楽しみにしてしまえば良いのだ、と、私は思うわけです。
ココサポ・プログラムでは、自分の目指すところ、夢や目標を『アウトカム』と言って、言語化します。
そして、このアウトカムを明確にすることはとても大切であることは、私自身経験しています。
が、アウトカムを目指す過程の中には「完璧」は存在しません。言語化して明確にすればすぐに叶う、というわけではありません。この過程に、かならず「ゆらぎ」が存在し、不測の出来事や思い通りにならない出来事にも遭遇します。一見、これらはアウトカムを目指す自分の足を引っ張るような出来事に感じるかもしれませんが、それも含めて、アウトカムを叶えるプロセスでありエッセンスなのだと思うのです。
つまり、不完全であり間違いや失敗が盛り込まれる「ゆらぎ」があってこそ、この世界は「完璧」なのだと思います。
私は自分自身にも、我が子にも常に言い聞かせていることがあります。
失敗できたからこそ、そこにチャンスがある。
間違ったからこそ、そこに気づきがある。
イタイ経験が自分自身を知るチャンスなんだ、と。
豊かに生きる、とは、おおきな「ゆらぎ」までも楽しめることだと思っています。