12月11日に、ココサポ・プログラムの第28期ベーシックコースが終了しました。
次回のココサポは2022年になります。
2021年のイベントが一つひとつ終わっていきます。
先日、『傷つきやすさ』について考える機会がありました…といっても、私が傷つきやすい、という話ではありません(笑)。
私は比較的、心身ともに頑強にできていると思っています(自分では)。凹むことはあっても、傷つきや凹みについて恐怖を感じたことはありません。たぶん、根っからの楽天家だからなのかもしれませんが。
私はふだんキッチンに立つときは、ラジオなどの音源コンテンツを聴きながら料理をするのですが、たまたまゲッターズ飯田さんの話を聞いていて「なるほど~!」と思うことがありました。
心はモノではないので壊れないんですよ。
傷つくのはプライドなんです。
ですから、ご相談者さんには「そのプライドは要りますか?」と訊くんです。
ほほう。
確かに。
そうなんですよね。
実は、心は物体ではありません。いかようにも姿を変えることができる変幻自在なものなんですよね。
プライドというのは、日本語では「誇り」と言います。自らを誇る感情です。
なるほど~。承認欲求とリンクして考えることもできそうです。
自らを誇る感情は大事だと思いますが、ここで語られた「プライド」は自尊感情ではないようです。自尊感情は無条件でありのままの自分を尊び認める感情です。
ゲッターズさんが言っている「プライド」は、自分で扱いきれない承認欲求の上に築いている要塞のようなものではないでしょうか。プライドの存在で自分は守られていると思っているようで、プライドに囚われて不安になり臆病になる…。
そのプライド、要りますか?
『傷つく』というのは、傷つく対象があるからです。が、心はモノではありませんから、ありようは自分で決められます。
「気にしなければ」傷つかない
「自分で自分を認められれば」気にならない
なぜ、傷つくのか…。
自分の中に在る、どんな感情や思いが「傷ついた」と認識したのか?
他者から直接的に傷つけられるような言動を出されたのであれば、「傷つき」に納得もできますが、周囲からみて「なぜ?」というようなところで「傷つき」を感じた場合、自分の中に在るプライドは、どのような思いを抱いているのでしょうか?
そのあたりを深く掘り下げると、もしかして、要らないものだと気づくかもしれません。
私はサラリーマンをしていたとき、ワーカーホリック状態でした。リスクを徹底的に回避して成功体験を積み上げれば、安心できると思っていました…が、その思いはエスカレートするだけで、ラクになるどころかどんどんキツくなっていきました。会社で表彰されても、インセンティブを貰っても、自身は全く満足できないどころか、「もっとやらなくちゃ」「もっとしっかりしなくちゃ」と思いました。結局、身体を壊して身動きが取れなくなってようやく、我に返るチャンスを得たのです。
当時の私のプライドは、「周囲から(仕事ができる)(任せられる)と思われたい」という承認欲求から来るものでした。思考軸が完全に他人(周囲)になっていますから、自分が納得できるわけがありません。誰もが気にならない些細なミスに傷つき、凹んで、余計なエネルギーを使い果たしました。
20代の若かりし頃の話ですから、私自身の発展途上の真っ最中でしかたのないことだと笑い話にできますが、いまになれば、「要らないものをたくさん抱えていたなぁ…」と思います。
ひとつひとつ、荷を下ろして、軽くなることができることを知った今だから言える話です。
私は、承認欲求は人間に不可欠な欲求だと思いますが、賞賛欲求は不要だと思います。
自分に自信をもって生きていくために必要なプライドとは「自分で自分を認めること」なのでしょう。けして他人から評価されるものではありません。周囲の存在など関係なしに、自分の軸を据えることができると、きっと、余計な『傷つき』から解放されるのかもしれません。
ということで、まもなく年が改まります。せっかく節目を迎えますので、この機にあやかって、『要らないもの』とさよならしてみてはいかがでしょうか?ココサポ・プログラムの最中で、参加者の方が「要らないもの」を発見し手放す瞬間があります。来年も、ココサポ・プログラムでご縁のあった方の「軽くなった」瞬間に立ち会えることを楽しみにしています。
よいお年をお迎えください(^^)